「福祉の仕事」を選び、そして「介護の仕事」へ ~その②~
みなさん、こんにちは。
今日もこのブログを見に来て下さり、ありがとうございます。
前回の続きになります。
福祉の仕事に就くことは決めたものの、具体的な分野を決め兼ねていた1998年、私は乙武洋匡さんが書かれベストセラーとなった「五体不満足」という本に出会いました。
ご自身が持つ障がいを個性としてポジティブに受けとめ、決して悲観的になることなく過ごして来られたことが伝わってくる内容に感銘を受けました。更に、その作中に書かれていた「障がいは『不便』だけど『不幸』ではない」というフレーズに心を打ち抜かれました。この時、自分の進みたい道が明確になったのです。私は障がいを抱えていらっしゃる方々が、ご自身を不幸だと感じないようお手伝いをさせていただきたい、と―――。
そして私は身体障がい者施設の職員採用試験を受けました。先述した自分の思いを面接で熱く伝えました。しかし、採用枠1名のところに20名程の方々が応募するという激戦だったこともあり、私は採用通知を勝ち取ることはできませんでした。採用されないという結果を受け、私は頭の中が真っ白になってしまいました。
その翌日です。その施設から私に一本の電話が入りました。その内容は、「今回は正規雇用としてはご希望に添えませんでしたが、非常勤職員の枠が1つあるので、もしよろしければいかがでしょうか」というものでした。非常勤職員、つまりパートタイマーです。給与は時給制です。この話を受ければ、最短で1年間はいわゆる「フリーター」の状態となります。受けるべきか、辞退するべきか…。その検討と決断を10秒程でしました。そして回答しました。「非常勤職員でも結構ですので、よろしくお願い致します」と。この当時、私の目的地は「障がい者福祉」の仕事でしたので、雇用形態はひとまず置いておいて、とにかくこの施設で働かせていただきたいという思いが勝ったのだと思います。そして1999年4月1日より、この身体障がい者施設で非常勤職員として勤務することになったのです。「障がいは『不便』だけど『不幸』ではない」というフレーズを、自身の中で繰り返し念じながら…。
~つづく~
余談です。
とりあえず1年間は非常勤職員での勤務となったわけですが、収入面では正規雇用のようにはいきません。学校を卒業した以上はいち社会人ですから、家にもお金を納めなければならないし、自分のクルマも買いたい(当時は自分のクルマを持つことがひとつのステータスみたいな風潮がありました)。結果、私はその1年間、新聞配達(朝刊のみ)と、身体障がい者施設での仕事と、居酒屋でのアルバイト(週3日)を掛け持ちしてお給金を稼いでいました。これまでの私の人生史の中で、最も働いていた1年間かもしれません。若さゆえの無茶?…ですかね。
この度はお読みいただき誠にありがとうございました。
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介護老人福祉施設ジョイフル名駅
施設長 原 浩輔